そして僕は途方に暮れる











不躾に降りかかる光の眩しさに、司馬懿は無意識ながらも癇性に眉根を寄せ、うっすらと目を開けた。
そして。



「………………!!?!!?」



腹に秘めたものを秘めたままに表に晒すなど、愚か者のする事よ───と、普段から訳知り顔に豪語している(その割には、実に表情豊かな軍師だと周囲にバレていたりする訳なのだが)司馬懿は、呆然と、愕然と、目の前に広がっている景色にただただ魂を奪われていた。
このような様を他人に見られれば何を言われるか解ったものではないのだが、今の司馬懿の賢しい脳髄には、そんな危惧などひとかけらも存在してはいないらしい。
余裕のない素振りを前面に押し出して、近く遠くを見回し、半開きの口元は閉ざされる事もなかった。

(…ど、どういう事だ、これは!?)

思考の許容量は並の人間より遥かに甚大ではあるが、しかしその許容を超えれば、如何に鬼才を誇る司馬懿とて冷静には対処しかねるものらしい。己の理解を超える現象を前にあたふたと慌てるのは、沈着冷静を求められる軍師としてはあまり誉められたものではないのかもしれないが、人としては間違っていない筈だ。少なくとも、人知を超えた未知なる力を前にしてさえ自分というものを一切崩さない───誰とは言わないが蜀漢の筆頭軍師なんかは間違いなくコレだろう───よりは、よっぽど親しみやすいといえるだろう。

で、そんな親しみやすい(?)司馬懿であるが。
普段いつも浮かべている、人を馬鹿にしくさったような表情はすっかりと消えていた。というか、どう見ても間違いようのないくらい、ありありと解るほどに狼狽していた。

(どうして私が……。いや、その前に此処は何処なんだ?)

思考はぐるぐると空回り、得意の状況分析さえまともに出来ないでいる。
そんな司馬懿の指を程よく茂った草が柔らかく撫で、遮られるもののない風はそよいで司馬懿の頬に触れていた。
目の前には、どこまでも広がる草原。澄み渡った空と明るい日差しに包まれた、乱世など無縁としか思えない世界が広がっている。
昨夜、気を失うように眠りについたその瞬間まで、司馬懿と共にあった筈の竹簡の山や、埃っぽい書庫、飾り気のない寒々しい壁、棚に溢れんばかりに積み上げられた報告書、申し訳程度に設えられた明かり取りの小さな窓も、今の司馬懿の周りには何もない。
馬鹿でかい許都の城にいた筈なのに、どうして眠りから覚めた自分がこんな所にいるのか。こんな所といっても、こんな所が何処なのかさえ今の司馬懿には解らないのだが、少なくとも城外という事だけははっきりしている。ぐるりと辺りを見回しても、城はおろか、目につくような大きな建物は一切ないのだ。

(───どういう事だ?!寝ている間に賊にでも入られて、攫われたとでも言うのか?!)

しかし、金目のものなど持ち歩いていない文官ひとりを連れ去って、このような所に放置して、それが一体どんな益を齎すというのか。
暴行を受けたような形跡もない。
それに、腐っても国家の中枢に位置している城の、しかも機密文書を保管していたあの部屋にまで、賊が入り込むとは到底思えない。
仮に上手く入り込めた賊がいたとして、しかしそこまで入り込むような者が、疲れて寝こけている文官を抱えて城から遠く離れた所に置き去りにするなどという事を目的にしていたなどと、納得出来よう筈もない。
それに。

(そのように運ばれていたのなら、幾ら疲れ果てていたとしても気が付くのに決まっている……)

司馬懿は文官であるけれども軍師でもあるから、当然戦場に赴き前線に立った事も幾度となくある。安穏と政務だけを執り行っている、そんじょそこらの文官とはわけが違うのだ。尤も、疾走する馬に揺らされて長距離を移動させられて、それでも全く気が付かないなどというのは、如何にそんじょそこらの文官でも有り得ないと思われるのだが……。

(…とにかく、だ)

いつまでもこんな野っ原に座り込んでいる訳にもいくまい。どういう理屈が働いたのかは解らないが、城より遠く離れた場所にいるというのなら、まずは城に帰るのが先決だろう。仕事を中途にして姿を消した事を咎める向きもあるかもしれないが、司馬懿とて逃げようなどと思っていたわけではないのだ。とりあえず、主筋に当たる曹操、曹丕辺りには事の次第を話して聞かせ、他の連中の戯言には耳を貸してやらねばいい。自分の言葉が受け入れられるかは微妙なところだろうとはさすがの司馬懿でも思ってはいるが、迷信などは信じないくせに珍妙な出来事には目がない曹家の事だ。世迷言と頭ごなしに切り捨てる様な事もなかろう。

此処が何処かも解らぬから、許都へはどうやって帰ればいいのかも皆目見当が付かない。ひとまずは人里へ出て話を聞き、帰城の手筈を整えるのはそれからでも遅くない。遅くないというか、それからでしか出来ないのだから致し方ないというべきか。何にせよまずは人のいそうな場所に向かわねばならない。

城にあっては余分な金など持ち歩かないのを信条にしている司馬懿は、従って今もほぼ無一文である。僅かばかり細かい金があるにはあるが、これでは馬一頭とて手に入れられそうにない。

(こんな事が頻発するようなら、ある程度纏まった金は持ち歩いておいた方が得策か…)

それ以前に頻発されては堪ったものではないがなと呟き、ようよう立ち上がった司馬懿の足元に、
「───ん?」
愛用している、しかし昨日は一度も触っていない筈の窮奇羽扇が転がっていたのは、天の恵みか魔の囁きか。

拾い上げた漆黒の羽扇は、温かな日の光を浴びて一層黒々と冴え渡っている。手に馴染んだ造りのそれを拾い上げた司馬懿の目は、やがていつもの剣呑さと不敵さを纏ってきらりときらめいた。
(わが智略と、この羽扇さえあれば、例え不利な状況であっても如何様にも手玉に取れよう。些か手間は掛かるかもしれんが、それが一体何ほどの事か。この天下に司馬仲達ありと───)



「思い知らせてくれるわ!フハハハハハハハ!!」



奇妙奇天烈な現実に放り出されていても、道理の通らぬものに取り囲まれていようとも、司馬懿が司馬懿である事は変わらない、実にうららかな1日の始まりであった。






それからどしたの




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